1861年・文久元年に肥前大村玖島に生まれた石井筆子は、若くしてアメリカ18代大統領・グラントに拝謁したのをはじめ、2年間にわたるフランス留学や、お雇い外国人や宣教師の家族たちとの交流を通して、早くから開明思想にめざめていた。家父長的家族制度のもとでの男性優位における女子教育は良妻賢母養成が主で、自立のための教育とは無縁だった。だが、筆子は、仕事と家庭の両立を果たす一方、女子教育の振興をはかるための民間の組織「大日本婦人教育会」の活動に邁進する。 筆子は3人の娘を授かったが2人は早逝し、残る長女には知的な障害があった。さらに夫は病弱で若くして死別という度重なる不幸が筆子を襲った。幼い子供を抱え未亡人となった筆子は、1898年、「大日本婦人教育会」の雑誌に「思ひ出つるまヽに」という論考を発表。
塔さんの詩をモチーフに、詩に込められた思いを「映像詩」として綴っていく。
そしてその中からハンセン病患者として生きてきた詩人・塔和子の人生の軌跡に絡ませながら、過酷な生を強いられた人々の無念の思いやその歴史的背景、そして彼らを取りまく家族の葛藤を浮き彫りにしていく。
「らい菌」によってひきおこされる伝染病。「らい病」 と呼ばれていたが、「らい菌」の発見者であるハンセンの名をとって「ハンセン病」と改名された。
かつては、不治の病と恐れられたハンセン病だが、菌の感染力はきわめて弱く、戦後にはプロミンという有効な薬が発見され完全に直る病気になった。
だが、患者の救護より、その伝染源を社会から排除するという強制隔離政策がつい最近まで続き、回復者たちの人権は省みられることがなかった。